テーマ : 迷惑とは?
日時 : 2024年4月23日(火) 19:30 – 21:00
会場 : 妙行寺門徒会館

今回のテーマ「迷惑とは?」は、参加者の方にご提案をいただきました。(ありがとうございます!) 以下の Q1 – Q3 を前提として、皆さんで90分間の対話を行いました。

 

Q1. 何が迷惑かは分からない。

他人の行為で不快になるという意味の「迷惑」について。ある行為で不快になるかは、人によっても気分でも変わるはず。周りの人が不快になるということ自体、結局分からないのではないではないか?迷惑だからやめてという言葉の裏には、他人が迷惑と感じることを理解するべきという認識。あるいは「皆も私と同じように感じているはず」という錯覚がある気がする。皆さんはどのように思いますか? (Q1 ここまで)

例えば選挙期間中は、候補者名を連呼する選挙カーが走ります。「外での運転中」「大切な会議中」「病気で寝ていたとき」「病院や学校の近くで」など、個人的事情・気分からも印象は変わるものでしょうか。ご自身が参加された音楽会を話した方もおられました。合唱メンバーの中に「どうしても音程が外れる」方がいるとしたら迷惑 (誰に対しても含めて) にあたるのでしょうか。ある人は迷惑かもしれないし、応援しているかもしれない。1対1の関係と、1対複数人。相手との人間関係・親密度でも迷惑を我慢できる、我慢できないは変わるもの。迷惑の境界線はお互いに可視化できないため、理解の違いや錯覚が起こる気がします。

人の本音は分かりにくい。口にしないだけかもしれない、許されているかもしれない、だから分からない。迷惑を我慢できない状況なら、不利益を被らないための対策を取る必要性もありそう。頑なに意見を (自我) を通すのはどうなの?ある人 (組織) には許された行為が、違う人 (組織) になると許されない。価値観や配慮のベースとなる部分も対話しました。

 

Q2. 「迷惑」という言葉は対話を遠ざけるのではないか。

「人様に迷惑をかけるな」 あるいは「迷惑だからやめて」という言葉はよく使われます。自分の気持ちを社会に仮託して正当化するずるさを感じたりはないですか?この言葉を言われた人は「これも迷惑になるかもしれない」と疑心暗鬼になって、表現がしづらくなるのではないか。(Q2 ここまで)

我慢できる迷惑。我慢できない迷惑。感情から起こる「社会に仮託した正当化」には、明確な根拠・相互理解も必要かもしれません。バランスに欠いた状態だとストレスが互いに続いてしまう。ここで「迷惑だからやめて」と伝えたとしても、表現する側の「私はこれがしたい」という熱量は止まらないのではないか。熱量が周囲にプラスに働くこともある。承認欲求が強い、場の雰囲気が読めないと思われることもある。対話を重ねながら「迷惑だから」「もっと表現したい」の埋まらない溝は「脳の作りが違う人間同士だからではないか」というご意見もありました。

 

Q3. 「迷惑」の代わりは何?

何をすべきか、するべきでないかという基準は「迷惑になるかどうか」ではなく「私の行為を受けた人から「いや」と言われたかどうか」のほうがいいと思うのですが、皆さんはどう思いますか。(Q3 ここまで)

例えば「いやです」「苦手です」と言い換えると、背後にある「社会の仮託した違和感」は無いかもしれない。何をすべきか、するべきではないかには「周りへの配慮」も問われそう。親切心や強い思いから向けられた行為も、相手への配慮不足があると「ありがた迷惑」だったり、場合によっては「利己的」と受け取られることもある。ひとりひとりの人間は、置かれている事情も「その日の気分」だって違う。迷惑の反対にあるものは「誠実」でしょうか。

生きる上で「迷惑」をかけない人はいない。本意ではなくても、相手に「自分のわがまま」を通してしまう場面もある。私は迷惑をかけて生きてきており、これからも迷惑をかけて生きることになります。ある人に「いつも迷惑をかけてごめんね」と言われても、こちらは「迷惑をかけられた」なんて全く思っていないこともある。十分に相手を配慮をした上での「迷惑」とは、逆に相手からの後押し (応援する気持ち) へと動くキッカケになるかもしれませんね。今回もあっという間に終了となりました。皆様どうもありがとうございました。

 

– 次回の開催について

6月25日(火)に妙行寺門徒会館にて。参加予約は「6月1日19時30分」より、ホームページで開始予定となります。初めての方もお気軽にお越しください。皆さまのご参加をお待ちしております。