テーマ : 曖昧
日時 : 2025年10月28日 19:30 – 21:00
会場 : 妙行寺門徒会館

はじめに、個人的な出来事として「奥様からの指示」を話された方がいました。奥様からの明確な指示がなかったために、あることに対しての「参加者さんと奥様の対応」が異なってしまいます。このように、些細な曖昧さが原因で誤解が生まれることもある。これに対して「私とあなたが同じ行動だった = 阿吽の呼吸」ということもあります。

人命を預かるお仕事の方もいました。何よりも正確さが求められる状況においては「曖昧さ」は決して許されません。人命と隣り合わせの日々は、刻一刻と状況が変わるもの。指示の曖昧さは、命の危険、トラブル、幅広い責任問題にも直結します。

しかしながら「世の中の全てが明確に規定されること」は、私たちの自由や余白を奪います。曖昧さが持つネガティブな側面、束縛から解放されるポジティブな側面。この二面性が浮き彫りになりました。コミュニケーションにおいて「全てを明確に語らないこと」は相手への配慮であり、人間同士の関係性に奥行きを加える工夫。物事を白か黒かに断定できないグレーゾーンを許容できる柔軟な姿勢を、心にいつも持っておくと便利なことも多いはずです。

ご自身でパン作りをされる方もいました。料理の世界では「〇〇を少々」「目分量」といった表現のように、曖昧さが許容される場合も多くあり、作り手の深みになります。食べ物は生き物と同じ。素材、調理機材、気候によっても変わるのですから、とても奥が深いものですね。介護施設に勤務される方は、明確な行動を前提とした上で、利用者の健康状態、体力、人間関係、個性や性格までも細かく察しています。利用者のひとりひとりが、どのような対応をいちばん望んでいるか。人の数だけ違いがあるために「柔軟な曖昧さ」こそが、心身を含めたケアに繋がるのではないでしょうか。

経験の差が出る手作業、スポーツ審判なども感覚的な領域であり、曖昧さと繋がっています。ある手作業を習得する際に「ここで腕や指に力を入れて 〜」 と説明を受けても、力の入れ具合は人それぞれで異なるもの。感覚的な領域だからこそ「他人に上手く説明することが難しい」こと。関西の方々の会話では、言葉尻に「しらんけど」という、断定を避けつつも意見を述べる表現も使われます。曖昧な表現を使うことで、人間関係の軋轢を避けたり、ごく自然な自己防衛となっています。

効率とスピードが求められる現代。明確な答えを急ぎがちですが、人間関係や日々の生活の中には「ざっくり」とした配慮や「行間を読む」感性、状況に応じて判断を変える「柔軟性」が大切になる瞬間が多くあります。明確ではないことも大事なこと。曖昧があるからこそ他者に寄り添い、共に歩むことができるのではないでしょうか。

たにやま哲学カフェは、皆さんが日頃感じる「どうなんだろう?」という問いを共有することで、年代や立場の違いを超えた対話を行なっています。多様な価値観に触れる機会はいかがでしょうか、ぜひお気軽にご参加ください。

 

– 次回の開催について

12月16日(火)に妙行寺門徒会館にて。参加予約は「12月1日19時30分」より、ホームページで受付開始いたします。ご参加をお待ちしております。