


テーマ : 共感
日時 : 2025年12月16日 19:30 – 21:00
会場 : 妙行寺門徒会館
共感。現代社会においても重要視されながらも、私たちを悩ませるもの。対話のスタートは「共感」という言葉に抱くポジティブなイメージを出し合うことで始まりました。患者によりそうこと。年末に「今年の漢字」を予想すること。美味しいと紹介された飲食店のこと。相手の苦しみに寄りそう共感は「薬」のような役割でしょうか。今年の漢字予想が当たったり、おすすめの飲食店のメニューで「美味しいね」と分かち合えた瞬間も共感そのものですよね。
それでは「自分に経験がないこと」や「価値観が全く異なる相手」の場合、心からの共感ができるものでしょうか。会話の中で「なるほど」「そうですか」という相槌があります。全面的に共感!というより、思考を巡らせているかも。相手も受取り方よっては「もやもや感」が残ることでしょう。とはいえ、相手の会話にいつも「わかる!わかる!」と頷くのは、嘘をついている気がする。共感できないからといって拒絶しない = 理解や配慮。限界を認めた上でのコミュニケーションは、人間らしさを感じてしまいます。
気持ちがわかる = 共感は別もの。自分が深い悲しみの中にいるとき、安易に「わかるよ」と言われることは、心の痛みを土足で踏みにじられるような感覚を伴うことも。または、相手が自分以上に感情移入したことで、当事者の痛みが増幅されることもあります。共感することに満足する「根本の解決に至らない」というご意見も。私は「ここにいるよ」という、ひとつの共感を手放した先にある「寄り添いの形」もありますよね。
キーワードとして浮上したのは肉体性。ネット越しでは、相手が本当に「共に感じてくれているか?」は不透明。同じ空間で、相手の体温や呼吸、沈黙すらも共有する。これらの要素が「共感の質」につながる。相手の表情変化がないと地獄。共感には「聞き手の熱量」も関係するというご意見もありました。ある講義の場において、参加者が前向きに聞いてくれるか。それとも、聞いているフリか。個人よりも集団になると一層「空気の違い」が生まれやすいかもしれません。
スマホひとつであらゆる擬似体験ができることは、身体を伴った「経験」とは異なります。SNSグループでの「既読スルー」は、興味がないもの?複数名(上司部下など)が参加している中で、自分はどのようなアクションを取るといいか。出しゃばりたくはない。ツールを用いたコミュニケーションは、相手の表情が見えないので難しい。SNSもそうですが共感が数値化される時代。共感することがコミュニティに属する「ルール」や「義務」になっている側面があります。
多様なツールがある中で、どの程度の熱量で共感を示すべきか。共感の強制。同調圧力。共感と同調の違い。同意と同調の違い。中身のない共感で関係性を維持することは、一見平和ですが「自分の思いを表しにくい」空間。共感はもっと自立したもの。共感はお互いに「異なる人間」であることを前提としてながらも、通じ合おうとする行動。今回の哲学カフェを通じて、共感という言葉の多層性を目の当たりにしました。あなたのことは100%はわからないけど、あなたがそこにいて、何かを感じていることはわかる。お互いの「わからなさ」を尊重し合える関係。私も皆様で「正解のない問い」について考えて、言葉を交わすこのような時間は、純粋に「共感の場」であると思いました。
ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました。たにやま哲学カフェは、皆さんが日頃感じる「どうなんだろう?」という問いを共有することで、年代や立場の違いを超えた対話を行なっています。多様な価値観に触れる機会はいかがでしょうか、ぜひお気軽にご参加ください。
– 次回の開催について
2月24日(火)に妙行寺門徒会館にて。参加予約は「2月1日 19時30分」より、ホームページで開始いたします。ご参加をお待ちしております。