テーマ : なし
日時 : 2019年10月29日(火) 19:30 – 21:00
会場 : 妙行寺門徒会館 / 鹿児島市和田1丁目4番1号

 


 

– 第8回 たにやま哲学カフェ / ありがとうございました!

テーマがない → 無。まずは (進行された) 妙行寺 副住職より老子の漢文をご紹介頂きました。

– 三十輻共一轂。当其無、有車之用。

埏埴以為器。当其無、有器之用。

鑿戸牖以為室。当其無、有室之用。

故有之以為利、無之以為用。

これは「無用の用」ともいわれる言葉で、逆説的な意味を持っています。これより、参加者の皆様で対話が始まりました。対話の一部を書かせていただきます。

 

A. 無と認識できるものは、そもそも「無」ではないかもしれない。純粋に無であれば、そもそも気付かない。認識されないものかもしれない。

B. 人が亡くなることは、決して「無」になることではない。想う人の中に生き続けている。

C. 病院で診察を受けて「異常はありません」というやりとり。ガンなどは長年かけて大きくなるため、あくまで現時点での判断?患者に病気が「全く無い訳」ではない。

D. 無と0 (ゼロ) は違うもの?その違いを考えていきたい。

E. 無表情、無意識… 一般的に打ち消し・否定するする印象。しかし「無垢」などの言葉は異なる気がする。

 

【 これらの対話から 】

無は「人間の中にある価値基準」で有無が決まるもの? 存在を消したり、知覚できないもの?へ進みました。それとも「無は、無そのもの」でしょうか。

【 休憩を挟み、後半へ 】

後半は仏教で使われる「無とは?」をご説明いただき、対話が始まります。そして「無は有益な側面があること?」へ繋がっていきます。無欲とは、良い意味でも悪い意味でも使われる。般若心経では「空」「無」という文字が多く見られるとのこと。

仏教世界での無とは、悟りに繋がる。無に憧れる。肯定的に捉えられるものにあたるとのことです。逆に「有」は、捉われていることであり、無は戒めになる。人は勘違いしてもいけないこと。捉われていることに「拘らないこと」が、大切であるということでした。

【 無の肯定的側面があることを心に留めて 】

参加者の女性より、無という漢字は「人が舞う姿」の象形でもあることもご説明いただきました。人が舞う.. 漢字の成り立ちを知らなかったこともあり驚きでした。同じく、これまでに無という漢字は「不思議な作り.. 」との印象を持っていた方もおられました。しかし、今回の哲学カフェに参加したことで「無という漢字が好きになった」とのことです。

心の持ち方の大切さ。開始時に沈黙気味だった空気。終了時刻はポジティブなものに変わりました。初めの「無用の用」ともリンクしました。皆様より多くの対話をお聞きできた時間でした。お忙しい中にご参加いただき、ありがとうございました!

 

【 次回の哲学カフェは、12月24日(火)19時30分から 】

クリスマスイブ開催!是非、初めての方もご参加ください。